気違いという言葉

「気」が「違う」のである。「気」という言葉は、当人の意識、現代でいう理性、頭の具合、精神の様子などをぼんやりと指す。いや、実は当人自身に限定されたものではなく、居合わせた人間たちが形作る場の雰囲気・流れも含む。さらには人間に留まらず、気候や地形など自然のたたずまい、あるいは神秘主義的な意味での運命や神仙の意図まで含んで使う場合もあったかも知れない。そんな「気」が、ふだんと違っている、というのが気違いという言葉だと思う。それは、狂ったのは当人の責任だけじゃない、という優しささえ感じさせる。人間は誰しも狂うものである。狂う度合いや、頻度は違うが。

それを、「気」が違う、と表現する。なんて上品な言葉だろう、と思わないだろうか。

そして、そんな言葉を使わせない連中の美意識、いや言語知識、あるいはもっと言えば国語の成績は、それはそれは低いものだったろう。
言葉狩りって、なんて下品なもんだろう。